大学生の研究日誌序説

心理学徒の研究日誌。日日是好日。

田中義久 (1973). 私生活主義批判 人間的自然の復権を求めて 筑摩書房

要約

 「私民」, いわゆる「鉄の檻」に閉じ込められ, 合理化の過程で疎外されてしまった内的人間を, 「日常生活批判」を通して, 「第二の自然(=市民的統合, 広い意味での形式的類似概念としての公共圏)」を下からのボトムアップの変革を取り戻す論理の青写真を描き出そうとすることが目的となっている。

 この本のタイトルは「私生活主義批判」となっているが, 批判理論のように批判に終始するような内容ではなく, それとは裏腹に私生活の意味を多角的に反作用の力関係の中で捉え直し, 地に着いた論理で述べられている。

 まず, 著者は私生活における日常性行為の生活領域を以下の4つに分類している。

 

➀ 生理的欲求に基づく「自然的再生産の行為」の生活領域

➁ 労働を軸とした「社会的再生産の行為」の生活領域

➂ マス・コミュニケーションなどの記号行動を中心とする「精神的生産および消費の活動」の生活領域

➃ レジャー産業を媒介とした「自己回復の行為」の生活領域

 

これらを日常生活における「意味の構造」の分析単位とし, 管理社会の社会規範に従って擬似個性を発揮するか, 主体的価値をある程度持ちつつも, どこかで諦念している日本的「ニヒリズム」として生きる二項対立図式から自己の超克を試みる。

 筆者はそのような行為体系の形成の構造を以下のように述べる。

 

人びとの主体的行為は、けっして、かれらの日常性をささえる彼ら自身の行為の体系から突出して浮きあがることなく、逆に、日常行為の体系によって基礎づけられるとともに、それら行為体系を照射しかえす。ここにおいて、問わるべきは、「現在のなかにありながら現在を超えでて未来を先取りするという人間の実践の構造」(城塚登)である。人びとの主体的意志は実践にたちかえり、実践は、また、意志によってつき動かされる。(p. 80)

 

そしてその根拠を以下のように述べる。

 

わたくしは、それをわたくしたちの日常性の実質をなすところの社会的行為群に含みこまれた情熱(Leidenschaft)と苦悩(Leiden)のアマルガムにもとめる。わたくしたちの主体的行為の実体的基礎をなすものは、あのマルクス的情熱とキルケゴール的苦悩との綜合にほかならない。(p. 80)

 

 関係自体が物象化・制度化・商品化を通じて「自立化」し, それがしがらみとなった時に初めて, 主体性の「自由」や「再帰的自己」というものが意識されるようになる。

 ここから, 人間の内側からの積極性が求められていき, それがグライヒシャルトゥングではない, コンミューン的連帯空間が生まれるという。

 

批判

 恐らく膨大な知識を総動員させて書かれているのだと思うが, 出典というか, 誰かの発言であるならば, 引用元ぐらいは明記してほしい。このシリーズは引用文献を提示しないスタイルなのか?以前読了した見田宗介の『現代日本の心情と論理』もそうだった。ある程度自分も知識がついてきたので, この概念はこれを文字っているとかはわかるんだけど。

 

感想

 結論は僕の考えていることと同じであったが, 私生活主義を脱するパスが異なる。著者は, あくまで近代の主体性に賭け, そこから弁証法的否定, つまり, 原因とその結果がシステムとして内在しているような入れ子構造型の演繹思考から個人の意識範囲を広げていこう意識がある。

 僕は, 構造を変革し続けることによって, 個人の内面性や価値が引きはがしていく, どちらかといえば決定論的思考がつよい。原因は全て外因と考える。しかし, 最近はこの領域の様々な見解を見ていると, 主体性と社会におけるせめぎ合いの問題として捉え, 内因の偶然性を模索するような視座は人間関係やその他, 因果律では捉えきれないような問題に対して有用であるように思える。

この話に偶々タイムリーな出来事が以前あった。この前小坂井敏晶先生のシンポジウムにおいて, ナラティヴ論の第一人者である森岡正芳先生がイギリスのロマン主義派の詩人であるJohn Keatsの「Negative capability」という概念で主体性における心の在り方を位置付けていた。Negative capabilityとは, 「負の受容力」とも訳され, 社会における答えのない所である一定の「分からないけれども, 踏ん張る」という能力のことを指すのだという。これは, 僕がなるほどと思った。原因論における本質論を実現可能性のデュミナスにおける認識論として置き換えているのだ。しかし, 今の自己責任論や責任を押し付けたがる人間が跳梁跋扈している人世でそれは果たして可能であろうか。そして, 自由という刑に処せられている人間は, 自己を選択淘汰していく中で, 「自分だけ」がとりあえず助かろうという「私生活主義」に回帰してしまうのではなかろうか。これらを利用して空間軸を時間軸の問題として捉えてしまう両義性も考え物だが。しかし、だ。また, マルクスも言っているが, そういうシステムや社会規範を駆動させているのも畢竟人間なのである。さてさて。

 

P.S. 独り言つ。

――― ぼくは、行人の一人を呼びとめると、一体何処へいくつもりなのかと尋ねてみた。その男は、自分もまた他の連中も、行先のことは何も知らぬ、ただ前進しようという打ちがたい欲求にたえず駆り立てられている以上、たしかに何処かへ行きつつあるのだろう、と答えた――― 

ボードレール

 はじめに引用されていたフランスの詩人ボードレールの文である。これは, 今の日本, 特に若者を中心に占めている時代精神を言い得て妙ではなかろうかと思う。未来は分からないけど, 「ある程度」は分かるのだ。とりあえずはそれに向かって努力するが, それを保証してくれる機関はどこにもない。だから, 自ら努力する。「天は自ら助くる者を助く」。しかし, ここにおいては経済的・構造的要因を「度外視」しての努力を指している。その帰結として, 視野狭窄に陥り, 自己の外因には目もくれず, 人生哲学やある種のマニュアル化・合理化された思考形式に依拠・収斂していく。その先には何が待っているのだろうか。機械の延長と化した主体か。それとも, 主体的自己として夢を追い続ける百代の過客か。

 

私生活主義批判―人間的自然の復権を求めて (1974年)

私生活主義批判―人間的自然の復権を求めて (1974年)