大学生の研究日誌序説

心理学徒の研究日誌。日日是好日。

KHCoderでやってみた分析事例:新聞記事

前年の授業の課題の一貫で、KHCoderでテキストマイニングをしてみました。

稚拙ですが、ここはこういう解釈が正しいとか、間違いやアドバイス、があれば頂けると幸いです。

ご笑覧して頂けると幸甚です、宜しくお願い致します。

 

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デカルト『方法序説』書評

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 「完全な」存在者は完全という観念(Idea)を含み得る――。

所謂この「神」は, cogito ergo sum (ego sum, ego existo/je pense, donc je suis)という第一原理から生み出された。

全き理性主義者であり, 懐疑論者のaporia-ある命題を「偽」とみなすことによる「真」の命題の呈示不可能性ーを回避しつつ, 理性による認識を自己言及的に精緻化していくような「方法的懐疑」を提唱する。

 その「精神」「知性」の延長としての「物質」という実体を設けた。これがかの有名な二元論。

面白いのが, 全て神からの演繹として結び付けられていること。アクティナスやアリストテレス流の経験論的認識論(スコラ哲学)ではなく, プラトンアウグスティヌス流のイデア論を支えとしているのが逆説的な引用からよくわかること。

 

第六部が個人的にはおススメ。「お前ら, 他人には気をつけなはれや。」的なことが書かれていて, 「なんでもアウトプットすりゃええもんちゃうで, それに関わる時間のこと考えてまっか。」みたいな所がすごく勉強になった。詳しくはよんでみそ。

四部か五部は理科の教科書で, AIのことについてふれているような記述もあって面白い。後は, X³←この記号記述を考えたのはデカルトらしい。ほえー。

 

P.S. プロフィール変えました。

 

 

 

 

 

 

田中義久 (1973). 私生活主義批判 人間的自然の復権を求めて 筑摩書房

要約

 「私民」, いわゆる「鉄の檻」に閉じ込められ, 合理化の過程で疎外されてしまった内的人間を, 「日常生活批判」を通して, 「第二の自然(=市民的統合, 広い意味での形式的類似概念としての公共圏)」を下からのボトムアップの変革を取り戻す論理の青写真を描き出そうとすることが目的となっている。

 この本のタイトルは「私生活主義批判」となっているが, 批判理論のように批判に終始するような内容ではなく, それとは裏腹に私生活の意味を多角的に反作用の力関係の中で捉え直し, 地に着いた論理で述べられている。

 まず, 著者は私生活における日常性行為の生活領域を以下の4つに分類している。

 

➀ 生理的欲求に基づく「自然的再生産の行為」の生活領域

➁ 労働を軸とした「社会的再生産の行為」の生活領域

➂ マス・コミュニケーションなどの記号行動を中心とする「精神的生産および消費の活動」の生活領域

➃ レジャー産業を媒介とした「自己回復の行為」の生活領域

 

これらを日常生活における「意味の構造」の分析単位とし, 管理社会の社会規範に従って擬似個性を発揮するか, 主体的価値をある程度持ちつつも, どこかで諦念している日本的「ニヒリズム」として生きる二項対立図式から自己の超克を試みる。

 筆者はそのような行為体系の形成の構造を以下のように述べる。

 

人びとの主体的行為は、けっして、かれらの日常性をささえる彼ら自身の行為の体系から突出して浮きあがることなく、逆に、日常行為の体系によって基礎づけられるとともに、それら行為体系を照射しかえす。ここにおいて、問わるべきは、「現在のなかにありながら現在を超えでて未来を先取りするという人間の実践の構造」(城塚登)である。人びとの主体的意志は実践にたちかえり、実践は、また、意志によってつき動かされる。(p. 80)

 

そしてその根拠を以下のように述べる。

 

わたくしは、それをわたくしたちの日常性の実質をなすところの社会的行為群に含みこまれた情熱(Leidenschaft)と苦悩(Leiden)のアマルガムにもとめる。わたくしたちの主体的行為の実体的基礎をなすものは、あのマルクス的情熱とキルケゴール的苦悩との綜合にほかならない。(p. 80)

 

 関係自体が物象化・制度化・商品化を通じて「自立化」し, それがしがらみとなった時に初めて, 主体性の「自由」や「再帰的自己」というものが意識されるようになる。

 ここから, 人間の内側からの積極性が求められていき, それがグライヒシャルトゥングではない, コンミューン的連帯空間が生まれるという。

 

批判

 恐らく膨大な知識を総動員させて書かれているのだと思うが, 出典というか, 誰かの発言であるならば, 引用元ぐらいは明記してほしい。このシリーズは引用文献を提示しないスタイルなのか?以前読了した見田宗介の『現代日本の心情と論理』もそうだった。ある程度自分も知識がついてきたので, この概念はこれを文字っているとかはわかるんだけど。

 

感想

 結論は僕の考えていることと同じであったが, 私生活主義を脱するパスが異なる。著者は, あくまで近代の主体性に賭け, そこから弁証法的否定, つまり, 原因とその結果がシステムとして内在しているような入れ子構造型の演繹思考から個人の意識範囲を広げていこう意識がある。

 僕は, 構造を変革し続けることによって, 個人の内面性や価値が引きはがしていく, どちらかといえば決定論的思考がつよい。原因は全て外因と考える。しかし, 最近はこの領域の様々な見解を見ていると, 主体性と社会におけるせめぎ合いの問題として捉え, 内因の偶然性を模索するような視座は人間関係やその他, 因果律では捉えきれないような問題に対して有用であるように思える。

この話に偶々タイムリーな出来事が以前あった。この前小坂井敏晶先生のシンポジウムにおいて, ナラティヴ論の第一人者である森岡正芳先生がイギリスのロマン主義派の詩人であるJohn Keatsの「Negative capability」という概念で主体性における心の在り方を位置付けていた。Negative capabilityとは, 「負の受容力」とも訳され, 社会における答えのない所である一定の「分からないけれども, 踏ん張る」という能力のことを指すのだという。これは, 僕がなるほどと思った。原因論における本質論を実現可能性のデュミナスにおける認識論として置き換えているのだ。しかし, 今の自己責任論や責任を押し付けたがる人間が跳梁跋扈している人世でそれは果たして可能であろうか。そして, 自由という刑に処せられている人間は, 自己を選択淘汰していく中で, 「自分だけ」がとりあえず助かろうという「私生活主義」に回帰してしまうのではなかろうか。これらを利用して空間軸を時間軸の問題として捉えてしまう両義性も考え物だが。しかし、だ。また, マルクスも言っているが, そういうシステムや社会規範を駆動させているのも畢竟人間なのである。さてさて。

 

P.S. 独り言つ。

――― ぼくは、行人の一人を呼びとめると、一体何処へいくつもりなのかと尋ねてみた。その男は、自分もまた他の連中も、行先のことは何も知らぬ、ただ前進しようという打ちがたい欲求にたえず駆り立てられている以上、たしかに何処かへ行きつつあるのだろう、と答えた――― 

ボードレール

 はじめに引用されていたフランスの詩人ボードレールの文である。これは, 今の日本, 特に若者を中心に占めている時代精神を言い得て妙ではなかろうかと思う。未来は分からないけど, 「ある程度」は分かるのだ。とりあえずはそれに向かって努力するが, それを保証してくれる機関はどこにもない。だから, 自ら努力する。「天は自ら助くる者を助く」。しかし, ここにおいては経済的・構造的要因を「度外視」しての努力を指している。その帰結として, 視野狭窄に陥り, 自己の外因には目もくれず, 人生哲学やある種のマニュアル化・合理化された思考形式に依拠・収斂していく。その先には何が待っているのだろうか。機械の延長と化した主体か。それとも, 主体的自己として夢を追い続ける百代の過客か。

 

私生活主義批判―人間的自然の復権を求めて (1974年)

私生活主義批判―人間的自然の復権を求めて (1974年)

 

 

粟谷佳司 (2008). 音楽空間の社会学 文化における「ユーザー」とは何か 青弓社

3. 粟谷佳司 (2008). 音楽空間の社会学 文化における「ユーザー」とは何か 青弓社

要約
 ミシェル・ド・セルトーの「ユーザー」という概念を中心に, 音楽における空間の主体者の構成について様々な社会理論を援用して述べている。
 アンリ・ルフェーブルの「空間の生産( the production of space)」という概念を下敷きに, 命題を「(社会)空間は(社会的)生産物である」とし, 従来の自然科学の分野で扱われるような無機質的空間のイメージの引き離しを行っている。その上で, 空間における「ユーザーの主体性」がどのように社会や開かれたコミュニティにおいて展開されて行くか, また, その主体のアイデンティティが文化においてどのようにアーティキュレイトされていくかが議論の中心となっている。例えば, ラクラウとムフは, アドルノ, アルチュセール, マクルーハンに代表されるマルクス主義的な予定調和の経済的決定論を批判・回避しつつ, 社会という下部構造とユーザーという上部構造のせめぎあいの問題として, 必然性から偶然性へのシステムの解釈転換を試みている。

批判
 「ユーザー」と「オーディエンス」の違いが途中から分からなくなった。恐らく, 前者は本書のテーマにもなっているので, 音楽における主体的な聴取者を指しており, 後者は従来のアドルノのような受動的な聴取を指しているのかと考えられる。でも, p.89では「オーディエンスによって定義し直され, 利用されることが重要なのだ。」って書かれてあるので, うーん。
 後は, 強いて言うなら, 「感情的共同体」について, もっと記述が欲しかったぐらいか。加えて, 一定の時代の文化であるとされる「感覚の構造」というのが下部構造にあるとして, その中に包摂されると考えられる「感情的共同体」の離散集合の力学的パラダイムの記述もあると, なおよかったかもしれない。

 言いたい事は, ユーザー空間の構成的な空間を構築していくことだと思われたので, 筋が通っていて分かり易かった。

感想
 面白かった。僕は理論重視派なので, 第4章のアルチュセールの重層的決定が図らずも, 経済という最終審級を本質的に仮定しているがために(ontological gerrymandering), 決定論に陥っているという指摘から, 最終審級と重層的決定を切り離し, 「過剰決定」として概念のずらしを図り, できた隙間に偶然的要素として「ヘゲモニー」の構成弁証法的概念を差し込んだのは, 上手くできているなあと思った。「原因が結果に内在している」というのは, これはシステム論, 特に第三世代以降のシステム論と接合するような感じがある。あくまで, 経済という現象は構造内部で引き起こされるものであり, 円環内部での構造で結果は再生産される。構造内部と外部の境目は, 因果律のインプット・アウトプットで説明されるものではなく, 象徴として意味の差異として取り込まれるという事か?ここら辺は, 原著を当たらないと変数の関係がよくわからない所もある。

それぞれの要素が、「全体的部分」として、全体性を表出するものであるような「精神的」全体を有することをまさに前提にする、「その原理として、問題の全体が単一の内在性を持った一つの原理、すなわち一つの内在的本質に還元される」p.99

 

 

音楽空間の社会学―文化における「ユーザー」とは何か

音楽空間の社会学―文化における「ユーザー」とは何か

 

 

【雑感】 毛利嘉孝 (2012). ポピュラー音楽と資本主義 せりか書房

 

 

 

ポピュラー音楽を様々な文脈から捉えなおすという目的で, アドルノマルクス主義的批判理論やレギュラシオン学派の理論を基に, ポピュラー音楽と資本主義の権力関係を明らかにし, そこから「ムシカ・プラクティカ(実践する音楽)」を唱え, 大衆と政治性の双方向的な力の両義性を捉えていくべきだと主張。

日本におけるポピュラー音楽の転換点は70年であり, それ以前のフォーディズムを中心とした規格化された音楽から, ポストフォーディズム体制に移行し, 個々人の心情に合わせた音楽のセグメンテーションが起こり, 消費による自己実現, 音楽への感情移入, 自己の投影が始まったと述べる。

その後, 80年代に所謂「J-POP」というジャンルが成立し, ロスジェネ世代の意志を反映するように, 親密圏化した歌手への自己の投影が始まる。音楽の均質化が再び起こってくる。「創造的(クリエイティブ)」が自分らしさと結びつく。イデオロギーの誕生。

 2000年以降は以下のような音楽の流れが加速化していくのではないかという事であった。

 

Ⅰ音楽の断片化と散逸化BGM化。フレーズによる分節化。

Ⅱテレビやラジオ等のメディアの衰退。インターネット利用率の上昇。タイアップはもう聞かない。

Ⅲ音楽のアクセサリー化・消費サイクルの加速化

Ⅳ音楽のアーカイブ化・消費の長期化

Ⅴ音楽批評の相対的低下

Ⅵコスト低下

Ⅶミュージシャンの副業化

Ⅷライヴの特異性受容の高まり

 

批判

マルクス主義的批判理論を導入してポピュラー音楽を見るという事だったが, イマイチ議論にはあまり上ってこなかったような気がした。アドルノの言うような受動的大衆像ではなく, 産業と大衆が双方向的なベクトルで音楽とポピュラー音楽と関わっていることを指摘する点は割と多く見られたかも。後はもう少し煎じ詰めて, JPOPなどジャンルを自分で絞って分析すると, 割と理論に載った議論が出来るのかも。

後は, JPOPの議論の中でホックシールド感情労働をもじった「感情商品」や本田由紀の「ハイパーメリトクラシー」の概念を絡めて, 感情が商品パッケージ化されていく考察を述べている部分は興味深かったが, 論拠が少なく, いささか走りすぎのような気がした。ただし, これを土台にして考察を深められそうな部分が随所にあり。

 

 

 

感想

そもそもJポップの消費は、受動的に聴くことを通じてなされるわけではありません。視聴は主にミニコンポや携帯プレーヤーを通じて行われるために、音楽は日常的な風景のなかで霧散してしまっています。そして積極的な消費がカラオケという「歌う」という行為によって行われます。ひとびとは受動的になる代わりに、積極的にスターと同一化するのです。そこには、アドルノがみたような疎外はありません。というのもスターも、かつてのように絶対的スターではなく、だれもが潜在的になりうるような身近なスターだからです。

 正直, ここに僕が言いたい事が凝縮されているような。(笑)

結論という結論はこちらからはあまり見えてこなかったが, 内容的には異論が少ない。自分がこの分野の初学者であるのだから当然かもしれないが。

70s以降から歌唱力よりも見た目を意識した歌手やアイドルなどが生誕し始めたらしい。これは80年代以降彼らがCMなどのタイアップによって音楽産業が複合的・モジュール的に構成されていくことの暗示でもあったのがよくわかった。これは, アーテイストがシンボル化(記号化)されていくことをも後押ししており, 歌にちょっとずつ差異化を施してコンスタントに売れ続けるという「差異化」のことが言及されていた。著者は直接名前を出さなかったが, これはまさにボードリヤールの理論であろう。

 また, 音楽が均質化, また, それが90年代以降2000年になるにつれて感情が商品化して流通するのは, リッツア―の議論も直観的に乗っているような感じ。ここからマルクス疎外論浅田彰の「スキゾキッズ」などの自己論と接地できそうなのだが, できるかなあ。

 自分の目標のプライバタイゼーション要因の端緒は見えたか。自分の思ったことを幾らか述べられていたので, 議論の厳密性に欠けることがあるが, 認識枠組みの提供という面から見れば, ありがたい。ここから塑像していこうと思う。

 

P.S. とりあえず, アドルノはやはり僕と考えが近いような気がする。でも, 彼の本難しくてしんどいんだよなあ。まあ, それも何か深淵な気がして魅かれるところなんだけど。難しい文体は安易な思想は寄せ付けない著者の感情がにじみ出てすごく好き。「エセ個性尊重」とか, JPOPイデオロギーと化して, 政治性を隠蔽しているなんて, まんま僕の考えをついている。僕は, それ以上に現在は深刻だと考えていて, 夢や目標が対象化され, その夢や目標を掲げた教育選抜システムから漏れ落ちた人間を, 差別や個人内要因に帰して自分とは関係ないようなフリをして差別化をはかる全体主義イデオロギーがすごく嫌いで, これはかなり問題だと思うんだけど。個々を気遣うようにみせて, 結局は身の回りだけ気遣って, それが裏返しで全体主義として蔓延し始める。心理主義反対。

 

 

ポピュラー音楽と資本主義

ポピュラー音楽と資本主義

 

 

 

 

研究ブログ開設にあたって・緒言

こんにちは。そして, 初めまして。

今春から大学三回生になる立命館大学総合心理学部3回生のこまっきーと申します。もうすぐ春休みが終わりますが, 皆さんは春休み如何お過ごしでしたでしょうか。私は, この春休みは研究が比較的多くできたというのが所感です。ただ, 研究するにあたって知識が些少すぎると多々実感したこともあり, 「まだ若いので大丈夫ww」という月並みな人生論を振り回して自分の中でお茶を濁しております。(笑)(ちなみに, 「研究」という文字を使用しているのは, 「勉強」というとボランタリーな感じが出ないのと, 自分がやっていることに関してのプライドの気持ちを込めているからです。)

 

それと, 順番が逆になりましたが, 私の大ざっばな研究内容としては, 

現在は時間・余暇・知識その他諸々の連字符社会学を基軸に研究しており, 特にLuhumannの社会システム理論・Weberをはじめとする合理化論などの理論研究にも興味があります。「心理学部なのになぜ社会学の研究をしているの?」と疑問がおありの方もいらっしゃるかと思いますが, 話すと少し長くなるのでそこは括弧にいれて見ておいて下さい。(笑)

さわりだけ言うと, 心理学からずれていったのはミヒャエル・エンデというドイツ人作家が書いた『モモ』という本が端緒だろうと思います。『モモ』にはエンデの深甚なる資本主義世界への問いが物語に変奏されており, 話の節々にかなり哲学的な要素が含まれ読めば読むほど味が出てくるようなタイプの本だと思います。因みに, この本は児童文学なので, 小学生でも読むことが出来るのですが, 大人でも楽しめます。更に興味のある方は『エンデの遺言』も読まれると, エンデの思想的な背景がよくわかります。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

 

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

 

 

さてさて, 私ブログというのは初めてなのですが, このブログの目的は私の読書メモや試論を書くことで, それに対してのフィードバックやアドバイスを色んな人から頂く事も目的の延長としております。そして, この「試論」というのがこのブログの一つのユニークさがでると思っています。何故かというと, この試論のテーマをブログの読者さんから一部募集しようと思っているからです。特にテーマに関しては制限致しませんが, 社会学が扱いやすいテーマを挙げて下さるとこちらとしてもやる気が出ます。(笑)

 

後, このブログを通して勉強会や読書会なども自主的に開催できれば面白いかと思います。Twitter等のSNSは個人的には私は限界があると感じています。

どうも批判的な直観が鈍ったり, メディア心理学で言うエコーチェンバー現象と言って, 価値観が類似している範囲内でのコミュニティによる推論バイアスがあったりするので, face to face で議論するのは議論するにあたって大事な事だろうと思います。それと, 本人から距離が遠いのを笠に着て, コンテンツよりも人格批判を土台にしてぼやくのがよく見られます。これもよくないです。

これを言い出すと個人の属性に原因や責任を転嫁することに繋がります。それらは生物学的な汎脳主義の位相の一つであり, 「頭が悪い」等の安直なラベリングにもつながります。言葉の端々だけとらえて「かわいそうな人・変な人」と決めつける前にその人の現実性や生活性を鑑みて, その人の世界にできるだけ寄り添って相手の意見を尊重して議論を進めることが僕の目標です。(ここだけ熱くなっているのは, 最初の試論の橋頭保となっているからです。お許し下さい。)

 

長くなりましたが, ご質問・コメント等あれば気軽にお願いします。

ではでは。

 

※ 2019 2/14 訂正→研究テーマはプロフィールに書き直しました。テーマも変わりました。